稲盛塾長の講話より
私は京セラという会社を経営してこんにちまで、人がやったことのないことをやってきました。同時に、私自身も常に新しいことをやってきました。
今日の67歳まで、いつも知らない道、新しい道を歩いてきました。
そういう知らない道を歩かなきゃなりませんから、非常に用心深く、いろんなことを考えて考えるということが習い性になっているんです。
しょっちゅうシミュレーションをして歩いていくという生き方をしてきました。特に、今まで京セラで新しい事業を展開しようというときには、必ずといっていいくらい、考え抜いて考え抜いてきました。
「シミュレーションを繰り返していると、ついには夢と現実との境がなくなり、まだやってもいないことまでもが、あたかもやれたかのように感じられ」という 一文がありますように、まだやってもいない、手がけてもいないのに、あたかも「やれた」かのように感じられる、夢と現実の境がなくなってくるぐらいに考え 抜く。そういうことをやってきたために、一度踏み出して、やり始めますと、そう不安がありません。過去にやったことがないくせに、一度通った道みたいに思 えて、どんどん、歩めるのです。
私は第二電電という会社をつくりました。私はセラミックの専門家で、電気通信の専門家ではありません。それでも あえて自分の専門ではない道に入り込んでいこうと思ったのは、専門外の道に入り込んで成功するとすれば、私が持っている経営哲学、フィロソフィが正しいか どうかどうかの証明になる、と思ったからなんです。
皆さんに今話をしています、京セラフィロソフィの一つひとつの項目は、まさにエッセンスなんですよ。
みんな、専門的で、その分野に精通し、素晴らしい能力を持っていなければ事業はできないと思っていますけれども、私は経営の在り方、根本になるべき「経営 哲学」が一番大事であって、それを持っていさえいれば経営はうまくいくのではないかと、実は秘かに思っていたんです。私は京セラという会社をつくり、京セ ラフィロソフィをベースに経営をしてきました。
世間は私に言います。「稲盛さんはセラミックの優秀な技術屋ではありますが、セラミックの時代になったので、時流に乗ってうまくいったんですわ」と。みんながそう言いました。
たしかにその一面はあるかもしらんけれども、京セラが成功した大半の要因は、立派な経営哲学を築き上げたからではないかと私は思っておりました。
ですから第二電電を始めるとき、
通信についてはまったくの素人です。通信をわかっている人を採用し、その人達を私のスタッフに入れるけれども、私は第二電電の経営を哲学で、いわゆる京セ ラフィロソフィでもって経営してみる。もしこれが成功すれば、いかに経営のなかでフィロソフィ、経営哲学が大事なのか、その証明になるはずだ。もし失敗す れば、たしかに経営哲学だけでは経営できないという証明にもなる。だから、やってみる。
そう言って始めたわけです。
こんにち、第二電電が素晴らしい会社になっていったことを見ますと、今講義をしているフィロソフィは、経営の宝のなかの宝だと思います。
私が第二電電を創業したとき、私は専門家でもないくせに、今の「見えてくるまで考え抜く」ということをやりました。来る日も来る日もずうっと考え抜きまし た。第二電電を始める前は、ご承知のように「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答しましたけれども、いよいよ踏み切ろうとなってからは、第二電電を どうしていくか、本当に考え抜いていきました。
私は専門家ではないのに、専門のスタッフの連中の意見を聞きながら、自分でシミュレーションをし ていきました。何回も何回も考えて考え抜いているうちに「うまくいく」というふうになって、やがて夢なのか現実なのか訳がわからなくなって自信まで出てく る。まだやってもいないのに、です。
そして、いよいよ第二電電が始まるというときに森山信吾という人に社長をやってもらいました。その時私は次のように言いました。
「あなたは官僚の世界で名を遂げて、エネルギー庁長官にまでなり、私のところにきてくれて新しい事業をやるという。それも場違いの通信事業をやるという。 もしこれが成功すれば、役人生活とは違うまったく新しい仕事で成功することになります」「私はこの第二電電を上場させていくつもりです。ベンチャー企業で 壮大な通信事業を興し、それを上場まで持っていった人は、おそらく役人ではおらんはずです。そういうことをあなたにしてもらおうと思うんです」
そうして、森山さんに第二電電の社長を引き受けてもらいました。
当時、通産省の幹部で、資源エネルギー庁の長官までやったとなれば、いろんなところで接待を受けたり、チヤホヤされていたはずです。ところがウチへ来れば、そういうことはできません。
私は森山さんに「今度の事業はベンチャーですから、交際費等はありませんよ!」
「成功したら、自分で稼いだお金で交際費を使ってもいいですよ。」と言いました。
森山さんは非常に頑張ってくれました。そして1年経ち、2年経ち、段々と苦しい、状況は我に利あらず。JRの日本テレコムが出てき、一方では日本高速通信が出てきました。
我々はやむを得ず山に鉄塔を建てて、無線でネットワークを張りつめなければならない。悪戦苦闘です。本当にこれでもって同業者と互角に戦えるだろうかと悩み、どうかすると森山さんが弱音を吐く。
そんな時私は森山さんを連れて一杯飲みに行き次のように言いました。っ
「何であなた、弱音を吐くのですか」「第二電電は今後こうなって、ああなってそして上場までいくんですよ」という話をしました。
そういうことを言って、5年間、6年間かけて上場していくシミュレーションを森山さんにずうっと話してきました。そしてその通りの道を辿ってきました。
自分でも恐ろしいような感じです。会社の規模も、売上げも、進捗状況も全部その通りでした。そして最初にシミュレーションしたのと同じ時期に上場しまし た。残念ながら、それまでに森山信吾さんは脳内出血で倒れて亡くなってしまわれたのですが、私が会長兼社長に復帰して、陣頭指揮をとって上場まで持ってい きました。
森山さんを励ましながら、私はよく「あなた、何を言っている。最初に言ったでしょ。今苦しいのも最初から承知の上の問題であって、こ うなってああなって、こうして上場していくんですよ」と言いました。それはウソで言ったのではなしに、当然そうなるものだと自分で思い込んでいたんですか ら。NTTが民営化され、新しい新電電ができた。明治以来、国営でやってきた仕事に民間で初めて出ていくにも関わらず、あたかも一度通った道であるかの如 く、こうしてああして、こうなっていくということが読めておった。それは、そこまで考え抜くといいますか、シミュレーションするということが、そういうも のを作っていったような感じがします。
私は京セラという会社を経営してこんにちまで、人がやったことのないことをやってきました。同時に、私自身も常に新しいことをやってきました。
今日の67歳まで、いつも知らない道、新しい道を歩いてきました。
そういう知らない道を歩かなきゃなりませんから、非常に用心深く、いろんなことを考えて考えるということが習い性になっているんです。
しょっちゅうシミュレーションをして歩いていくという生き方をしてきました。特に、今まで京セラで新しい事業を展開しようというときには、必ずといっていいくらい、考え抜いて考え抜いてきました。
「シミュレーションを繰り返していると、ついには夢と現実との境がなくなり、まだやってもいないことまでもが、あたかもやれたかのように感じられ」という 一文がありますように、まだやってもいない、手がけてもいないのに、あたかも「やれた」かのように感じられる、夢と現実の境がなくなってくるぐらいに考え 抜く。そういうことをやってきたために、一度踏み出して、やり始めますと、そう不安がありません。過去にやったことがないくせに、一度通った道みたいに思 えて、どんどん、歩めるのです。
私は第二電電という会社をつくりました。私はセラミックの専門家で、電気通信の専門家ではありません。それでも あえて自分の専門ではない道に入り込んでいこうと思ったのは、専門外の道に入り込んで成功するとすれば、私が持っている経営哲学、フィロソフィが正しいか どうかどうかの証明になる、と思ったからなんです。
皆さんに今話をしています、京セラフィロソフィの一つひとつの項目は、まさにエッセンスなんですよ。
みんな、専門的で、その分野に精通し、素晴らしい能力を持っていなければ事業はできないと思っていますけれども、私は経営の在り方、根本になるべき「経営 哲学」が一番大事であって、それを持っていさえいれば経営はうまくいくのではないかと、実は秘かに思っていたんです。私は京セラという会社をつくり、京セ ラフィロソフィをベースに経営をしてきました。
世間は私に言います。「稲盛さんはセラミックの優秀な技術屋ではありますが、セラミックの時代になったので、時流に乗ってうまくいったんですわ」と。みんながそう言いました。
たしかにその一面はあるかもしらんけれども、京セラが成功した大半の要因は、立派な経営哲学を築き上げたからではないかと私は思っておりました。
ですから第二電電を始めるとき、
通信についてはまったくの素人です。通信をわかっている人を採用し、その人達を私のスタッフに入れるけれども、私は第二電電の経営を哲学で、いわゆる京セ ラフィロソフィでもって経営してみる。もしこれが成功すれば、いかに経営のなかでフィロソフィ、経営哲学が大事なのか、その証明になるはずだ。もし失敗す れば、たしかに経営哲学だけでは経営できないという証明にもなる。だから、やってみる。
そう言って始めたわけです。
こんにち、第二電電が素晴らしい会社になっていったことを見ますと、今講義をしているフィロソフィは、経営の宝のなかの宝だと思います。
私が第二電電を創業したとき、私は専門家でもないくせに、今の「見えてくるまで考え抜く」ということをやりました。来る日も来る日もずうっと考え抜きまし た。第二電電を始める前は、ご承知のように「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答しましたけれども、いよいよ踏み切ろうとなってからは、第二電電を どうしていくか、本当に考え抜いていきました。
私は専門家ではないのに、専門のスタッフの連中の意見を聞きながら、自分でシミュレーションをし ていきました。何回も何回も考えて考え抜いているうちに「うまくいく」というふうになって、やがて夢なのか現実なのか訳がわからなくなって自信まで出てく る。まだやってもいないのに、です。
そして、いよいよ第二電電が始まるというときに森山信吾という人に社長をやってもらいました。その時私は次のように言いました。
「あなたは官僚の世界で名を遂げて、エネルギー庁長官にまでなり、私のところにきてくれて新しい事業をやるという。それも場違いの通信事業をやるという。 もしこれが成功すれば、役人生活とは違うまったく新しい仕事で成功することになります」「私はこの第二電電を上場させていくつもりです。ベンチャー企業で 壮大な通信事業を興し、それを上場まで持っていった人は、おそらく役人ではおらんはずです。そういうことをあなたにしてもらおうと思うんです」
そうして、森山さんに第二電電の社長を引き受けてもらいました。
当時、通産省の幹部で、資源エネルギー庁の長官までやったとなれば、いろんなところで接待を受けたり、チヤホヤされていたはずです。ところがウチへ来れば、そういうことはできません。
私は森山さんに「今度の事業はベンチャーですから、交際費等はありませんよ!」
「成功したら、自分で稼いだお金で交際費を使ってもいいですよ。」と言いました。
森山さんは非常に頑張ってくれました。そして1年経ち、2年経ち、段々と苦しい、状況は我に利あらず。JRの日本テレコムが出てき、一方では日本高速通信が出てきました。
我々はやむを得ず山に鉄塔を建てて、無線でネットワークを張りつめなければならない。悪戦苦闘です。本当にこれでもって同業者と互角に戦えるだろうかと悩み、どうかすると森山さんが弱音を吐く。
そんな時私は森山さんを連れて一杯飲みに行き次のように言いました。っ
「何であなた、弱音を吐くのですか」「第二電電は今後こうなって、ああなってそして上場までいくんですよ」という話をしました。
そういうことを言って、5年間、6年間かけて上場していくシミュレーションを森山さんにずうっと話してきました。そしてその通りの道を辿ってきました。
自分でも恐ろしいような感じです。会社の規模も、売上げも、進捗状況も全部その通りでした。そして最初にシミュレーションしたのと同じ時期に上場しまし た。残念ながら、それまでに森山信吾さんは脳内出血で倒れて亡くなってしまわれたのですが、私が会長兼社長に復帰して、陣頭指揮をとって上場まで持ってい きました。
森山さんを励ましながら、私はよく「あなた、何を言っている。最初に言ったでしょ。今苦しいのも最初から承知の上の問題であって、こ うなってああなって、こうして上場していくんですよ」と言いました。それはウソで言ったのではなしに、当然そうなるものだと自分で思い込んでいたんですか ら。NTTが民営化され、新しい新電電ができた。明治以来、国営でやってきた仕事に民間で初めて出ていくにも関わらず、あたかも一度通った道であるかの如 く、こうしてああして、こうなっていくということが読めておった。それは、そこまで考え抜くといいますか、シミュレーションするということが、そういうも のを作っていったような感じがします。

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