動機善なりや、私心なかりしか

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稲盛塾長の講話です。

動機善なりや、私心なかりしか  *******
第2章第6節「人生を考える」

 大きな夢を描き、それを実現しようとするとき、「動機善なりや」ということを自らに問わなければなりません。自問自答して、自分の動機の善悪を判断するのです。
  善とは、普遍的に良きことであり、普遍的とは誰から見てもそうだということです。自分の利益や都合、格好などというものではなく、自他ともに、その動機が 受け入れられるものでなければなりません。また、仕事を進めていくうえでは、「私心なかりしか」という問いかけが必要です。自分の心、自己中心的な発想で 仕事を進めていないかを点検しなければなりません。
 動機が善であり、私心がなければ、結果は問う必要がありません。必ず成功するのです。
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  今から17年、18年前、私が満50歳になった頃、日本の電気通信の自由化が始まりました。明治以来、国営で営々とつくりあげてきた日本電電公社が民営化 する。その折に新規参入する企業を認めるということが始まったときでした。当時、私は日本の通信料金が米国の通信料金に較べて非常に高く、多くの国民が苦 しんでいる事に義憤を感じておりました。しかし何兆円という売上げの巨大な国営の電電公社を向こうにまわして戦いを挑むには、日本の大企業を中心にして 作っている経団連をベースに大企業のコンソーシアムをつくり、それが一致協力して電電公社に対抗する以外に方法はなかろうと思っておりました。そして、早 くそういう企業ができて、我々の電話料金を安くしてほしいと思っておりましたが、日本の大企業が連合でかかっても危険性がたいへん高いというので、どなた も手を挙げられませんでした。その中で、今から15年前、私はたまらずに第二電電という会社をつくる決心をし、名乗りをあげたわけです。
 満50 歳になってから考え始めて、52歳ぐらいで第二電電を作る時まで、私は「動機善なりや、私心なかりしか」ということを自分自身に問い続けておりました。私 が第二電電という会社をつくろうとする、その動機は善なのか。そこに私心はないのかということを厳しく自分自身に問い、そして私心がないことを確認してか ら、名乗りを挙げたわけです。このことは、皆さんにはもう何回も何回もお話をしています。

 同志を奮い立たせた動機、大義名分

  第二電電をつくる時に「動機善なりや、私心なかりしか」というこの言葉が出てきたのですが、50歳になって、日本の通信が自由化されていくという時、実は 電電公社の幹部社員であった千本さんや、専門の技術屋数名に集まってもらって、週末に京都で、どうすれば電気通信事業への新規参入ができるか、その可能性 を議論しておりました。そのときに、私どもはこういうことを言っておりました。

 日本の電気通信事業は明治以後、国営で営々とやってき て、今日素晴らしい通信のインフラができあがったのだけれども、電電公社が民営化され、初めて新規参入が認められることになった。これは100年に一度あ るかないかという大転換期だ。その大きな転換期を、自分達はある程度のレベルの人間になって迎えることになった。私は満50歳、一緒に議論をしている皆さ んは40歳、30歳。100年に一度あるかないかという大転換期に、年頃といい、資格といい、ちょうどそれに相応しいものを持った者が居合わせる。これは 何万分の一という人生の機会の中でも、たいへん少ない幸運ではないか。
 100年に一回あるかないかという大変革のときに、その変革の舞台まわしができるかもしれない。それだけの知恵とそれだけの能力を持ち、それに参画できるかもしれないというチャンスがある。誠に幸運としか言いようがないではないか。
  そしてまた、私自身の人生、あなた方の人生、たった一回しかない人生の中で、命をかけて挑戦しても惜しくないような幸運に恵まれることは、そうはないはず だと思う。この機会に命をかけて、これをやってみようじゃありませんか。それは、たった一回しかない人生を賭けるに値する素晴らしいチャンスではないかと 思う。

 実は、これが集まってくれた若い人達に言った最初の動機であり、最初の大義名分であったのです。ただ野心的に挑戦をする、そして挑戦に値する素晴らしいチャンスだというそれだけでは、第二電電というものに踏み切ることはできませんでした。

 自らに勇気と大義を与えるために

 そういう人達とそういう動機でもって議論をし、何とかやれるのではないかというかすかな明かりが見えてきました。そのときに、私は踏み切っていくためにはもっと何かが必要だと思い、気が付いたのが、「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉であったわけです。
  それから後、約6ヶ月間、毎晩毎晩、お酒を飲んで眠るときも、正常なときも、必ずベッドに入る前、「動機善なりや、私心なかりしか」と自分に問いました。 「おまえは第二電電を何としても始めたい、やりたいと思っているが、その動機は善なりや。そこに私心はないのか」ということを、毎日毎日、寝る前に自問自 答し続けたわけです。百万の敵を向うにまわして、それに挑んでいく勇気を私に与えるためにも、私が今からやろうとする仕事は大義なんだという名分がほし かったものですから、私はこの「動機善なりや、私心なかりしか」ということを自問自答していったのです。
 このことも、昨日から申し上げている人 生の方程式の中の、まさに「考え方」なのです。その考え方の中に、「動機善なりや、私心なかりしか」ということがあれば、必ず人生はそうなっていきます。 この項目は、昨日の方程式の考え方を補完するためにも、大変大事な項目になります。

 善とは純粋な心

 先ほど「徳」とい うことを言いましたけれども、「善なりや」ということは、単純にいいこと、正直なこと、人を助けること、優しさ、思いやりのある心、美しいことという言葉 で表してもいいと思います。いや、もっと言いますと、純粋な心です。そういうものを、私は善という言葉で表しているのだと思っています。
 よいこ と、人を助けるということ、正直なこと、優しさ、思いやりのある心、美しいこと、純粋なもの、それが善だと思います。つまり、自問自答する場合に、おまえ がそれをやりたいという動機は美しいことなのかよ、いいことなのかよ、人助けをしようということなのかよ、人に対して優しいことなのかよ、人に対する思い やりの心があるのかよ、そしてそれは純粋なのかよ、ということです。
実は、同じ第6節の最後に「純粋な心で人生を歩む」という項目があります。善とは純粋ということなのだというふうに思いが至ってまいりますと、これとダブってきますので、ちょっとこの項目を読ませてもらいます。


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このページは、前田が2008年8月10日 00:37に書いたブログ記事です。

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