反省のある人生を送る

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稲盛塾長の講話です。

反省のある人生を送る************
京セラフィロソフィー 第2章第6節「人生を考える」

 自 分自身を高めようとするなら、日々の判断や行為がはたして「人間として正しいものであるかどうか。奢りや驕(たか)ぶりがないかどうか」を常に謙虚に厳し く反省し、自らを戒めていかねばなりません。 本来の自分にたち返って、「そんな汚いことをするな」「そんな卑怯な振る舞いはするな」と反省を繰り返して いると、間違いをしなくなるのです。
 忙しい日々をおくっている私たちは、つい自分を見失いがちですが、そうならないためにも、意識して反省する習慣をつけなければなりません。そうすることによって、自分の欠点を直し、自らを高めることができるのです。
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この項目が第6節の最後になります。先ほど「純粋な心で人生を歩む」という項目を終えましたので、これが最後になりますが、この項目は人生の方程式のことを説明した第6節の中では最も大切だと言っていいかもしれません。
  なぜかと申しますと、私は人生の方程式の中で「その人が持つべき哲学、思想、心のあり方、または理念、信念、言葉をかえれば、その人の人格というものがた いへん大切ですよ。その人の人格そのもので人生が決まりますよ」ということを申し上げています。この2日間にわたって、私はそのことだけを申し上げてきま したから、皆さんもよくおわかりになったと思います。

 反省による手入れをしなければ、人の心は利己で埋まる

 しかし最 後に大事なことは、我々人間は肉体を持っているということです。我々はこの肉体を維持しなければなりません。毎日ものを食べて水を飲み、睡眠をとらなけれ ばなりません。水だけでも1週間摂らなければ、人間は命が絶えると言われております。この肉体を維持するためには、美味しいものを食う、または喉が渇いて 水を飲む。それが人間に元々本来備わったものです。つまり、人間は肉体を持つがゆえに、元々利己的で欲望に充ちた心を持っているわけです。
 利己 的で欲望に充ちた心を持っていると言えば、たいへんダーティに見えますが、決してそうではありません。利己的で欲望に充ちた心を持っていなければこの肉体 を維持できないから、神さまが与えてくれた心なんです。つまり、我々人間は肉体を持つがゆえに、利己的で欲望に充ちた心を本質的に持っているわけです。
  ですから、何も手入れをしないでそのまま放っておきますと、我々人間は必ず利己的で、強欲で、そういうものに充ち満ちた心で埋まってしまいます。それゆえ に、この項目にある「反省」というものがたいへん大事になってくるわけです。反省を繰り返していかなければ、素晴らしい考え方、素晴らしい人格、人間性、 そういうものを維持することすら不可能になります。ましてや、素晴らしい人間性、素晴らしい考え方、素晴らしい人格を向上させることなど、まったく不可能 になるんです。つまり、考え方は動機が純粋でなければなりません。心が純粋でなければなりません。心を純粋に、また善に向けていくためにも、「反省」こそ 欠かせないものなのです。
 私は皆さんから「塾長、塾長」と言われて慕われ、また偉そうなことも言っておりますけれども、私自身、まったく不完全 な男です。肉体を持っておりますだけに、悪くいえば、スキあらば悪さをする、スキあらば自分の欲望を満たそう満たそうとする普通の人間そのものです。です から当然、間違いもしばしば起こします。
 それがあるからこそ、聖人君子ではなくて、私自身が若干の人間らしさを持っていると言われるのかもしれ ません。またそれが私自身の人間的な魅力であるのかもしれません。しかし、それはそれで、やはり悪いことは悪いのですから、常に反省を繰り返し、それ以上 悪くならないように努力をするのが我々の努めだろうと思っています。また、昨日から申し上げている人生の方程式を立派に遂行するためにも、私の考え方を常 にいい方向に維持し向上させていくためにも、反省は欠かせないものだと思っています。
 反省のある人生を送っている人は、当然謙虚な人です。私は 皆さんに、「謙のみ福を得る」という中国の古典の言葉を申し上げています。謙虚な人生のみ福を得ることができます。謙虚な人でなければ、決してラッキーな ことは得られません。どんなに立派なことをやろうとも、傲慢になってはいけません。そういうことを常に申し上げていますが、謙虚な人生を送っていくために も、自らを反省する人生でなければならないのです。

 「神さま、ごめん」「神さま、ありがとう」

 皆さんもよくご存知の 通り、私は若い頃から毎朝洗面をするときに反省というものをしてきました。最近では、毎朝洗面所に向かったときだけではなくて、一杯飲んで夜、帰って寝よ うとする時にも反省をしています。ちょっと威張ったようなことを言ったり、何かこう調子のいいことを言ったりすると、もう恥ずかしくて、家に帰って、また こういうホテルの場合でも、「神さま、ごめん」とすぐ出てしまいます。
 「ごめん」と「神さま、ありがとう」と、二つ出るのです。この二つしか言 葉はないのですが、そのどちらも、「許してください。先ほどの態度はごめんなさい」というためなのです。これが朝洗面をする時、または傲慢に振る舞った り、悪さをして帰ってきた時、ひとりになった時に出る言葉です。それも大きな言葉で出るものですから、人が聞いたらキチガイではないかと思われるかもしれ ません。ですから、その言葉が出るときには、なるべく自分の部屋にいるようにしているんですが、それが私を戒めるものだと思っています。

 反省のある日々が人生方程式を完結させる

 CSIS というアメリカのシンクタンクの社長をやっておりましたアブシャイヤー元大使が、私が書いた『新しい経営、新しい日本』の英訳版の「リーダーのあるべき 姿」という一節を読まれて、「特にクリントン大統領の今の現状から見て、ワシントンの政官財の間で、新しい世界を引張っていくためのリーダーのあるべき姿 を議論する必要がある。ドクター稲盛の本から得たことなんだけれども、アメリカの有識者に集まってもらって、新しいリーダーはいかにあるべきかというリー ダー論をやりたい」と言いに来られました。
 今年の春、その会がもたれたのですが、私の本からヒントを得た会ですから、私もそのシンポジウムのス ポンサーのひとりになり、かつ同時にランチのときのスピーチにもまいりました。そのスピーチで私は、内村鑑三の『代表的日本人』に出てくる二宮尊徳の話を 例に引きながら、こういう話をしてきました。

 多くの方々が、「リーダーとして我々が認める人は立派な人格を持った人だ」と、異口同音に 言われると思います。しかし大事なことは、人格は変化するということを前提に置かなければならないということです。リーダーには大変立派な人格者を選ぶ必 要があります。初代ワシントンはこうであった、ああであったと、いろんな事が出てきましたけれども、素晴らしい人格を持った人をリーダーに選ぶというのは 当然でありますが、しかし残念ながら、人間の人格は変化するということを前提におかねばなりません。
 たとえ、立派な人格を持った人だと思い、そ の人をリーダーに選んでも、その人が権力の座について数年、変化を遂げて人格が変わり、我々が思ったような政治をしてくれないというケースはいくらもあり ます。また、若い頃には犯罪にまで手を染め、人間的にいかがかと思われたような人が、晩年は人間が変わったように、素晴らしい人格者になっていかれた例も あります。立派な人格者と見えた人が、権力の座について変化を遂げ、本当にくだらない悪さをするという事も我々は見てきています。
 つまり、リー ダーに立派な人格者を選ぶことは大切ですが、人間の人格は変化をするということを前提に置くべきなのです。立派な人格の人であっても、その人格を維持する ためには、その人が謙虚で、反省のある毎日を送っているかいないか。これがポイントになります。そういう人を、我々はリーダーに選ぶべきです。
 私の話を聞いたワシントンの多くの政官の方々が昼食のあと、私のところに寄ってきて、「素晴らしい話を聞かせてくれた」と喜んでくれました。
  あの人生の方程式が立派なものであり、そして立派な考え方をしなければ立派な人生を送れないとすれば、立派な考え方をつくるための努力をしなければなりま せんが、同時にその手入れも決して怠ってはいけません。毎日毎日手入れをし、磨き、さらに立派なものにするためには、反省のある毎日を送る、反省のある人 生を送る。そういうことがなければなりませんし、それが人生の方程式を完結するもとだと思います。

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このブログ記事について

このページは、前田が2008年8月12日 00:45に書いたブログ記事です。

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