稲盛塾長の講話です。
お釈迦さまは悟りを開くことが人生の目的だと仰り、その方法
として六波羅密というものを示されました。他人さまのために尽くし、自分の煩悩を少しでも抑え、一生懸命に人生を頑張って生き、そして堪え忍び、心を静か
に落ち着ける。そうすれば悟りに至ることができると仰ったわけですが、悟りに至るまでの五つの項目は、すべて心を磨くということと一緒なのです。そしてそ
れは、この盛和塾でずうっと言い続けてきたこと、つまり、心を高めること、心を純化すること、心を浄化することなんです。
我々はお釈迦さまが仰る
ような悟りの境地にまで、到底行きようがありません。我々は悪さをしたり、思い違いをしては思い返し、直していき、それを試行錯誤しながら、繰り返してい
ます。生身の人間ですから、ついつい愚痴もこぼします。腹も立てます。欲も出てきます。いろいろなことがあるんだけれども、それは人間だから出てくるんで
す。悪いことではありません。ほどほどに抑えて、どこまで自分を磨いていったのかということが重要なのです。つまり、六波羅密の修行を、この人生でどこま
でやったのか、それが死ぬときの心のレベルとなるわけです。それは死ぬ前までに作り上げた人格であり、その人が持つ品格です。これだけは、どうもあの世へ
持っていくことができるのではないかと思います。素晴しいお人柄の人が亡くなられたとき、肉体は滅びても、その素晴しい魂だけはあの世へ行くのではないか
と思います。
人生の方程式のなかにある「考え方」を素晴しいものにしていくためにも、六波羅密は必要になります。そうして素晴しい考え方を作り上
げていけば、望まなくとも会社は立派になりますし、素晴しい会社に成長していきます。ただし、その結果として会社が立派になったことは手柄でも何でもあり
ません。それを作り上げていく過程で磨き上げてきた自分の人格、品格というものこそ財産なのです。
今日はヘンなことを言ったかのように思われたかもしれませんが、お正月、お屠蘇でも飲みながら、お雑煮を食べながら、今日私が言ったことを静かにしみじみと考えてみてください。三が日はお休みでしょうし、心を静かにして考えてみられたら参考になると思います。
稲盛塾長の講話です。
お釈迦さまは、人生のなかで一番の究極は悟りをひらくことで
あり、それが一番大事だと言っておられます。それを彼岸に至ると言いますが、一般に我々凡人は、それを極楽浄土のある向こう岸のことだと理解しています。
実際にお釈迦さまが説かれた彼岸とは、悟りの境地のことです。悟りをひらくことを彼岸だと説かれたわけですが、悟りをひらけば素晴しい安心立命の境地にな
りますから、そこが極楽浄土でもありますから、我々はその極楽浄土へ渡ろう、渡ろうと願うわけです。
その方法として、お釈迦さまは「六波羅密」という修行をせよと説いておられます。最初にくるのは「布施」です。お賽銭をあげるのも布施ですが、人を助けることが布施の意味になります。
私は、事業経営とは正反対のような「利他の心」ということを、この盛和塾で一連ずうっと説いてきています。利他の心で経営しようということに共鳴してくれ
る皆さんがおられるものですから、私はずうっと言ってきたわけですが、この利他の心は布施と一緒なのです。世のため人のためにという利他の心は、お釈迦さ
まが説く布施でもあるわけです。
二つめは「持戒」です。戒律を守るという意味です。そしてこのなかで、お釈迦さまは6大煩悩という六つの煩悩があり、それが我々を悪くしていくのだと仰っています。その煩悩をなるべく抑えていくことを、持戒と言っているわけです。
煩悩とは、肉体を持っているがゆえに出てくるものです。ですから煩悩は肉体を持つ我々に必要なのですが、しかし煩悩が非常にたくさんあるために人間をダメにしてしまっているケースはたくさんあります。
お釈迦さまが仰った6大煩悩のひとつは、欲を貪る「貧(とん)」というものです。食欲、性欲、名誉欲、それらの欲がない人はいません。肉体を持っているか
ら、どうしても必要なのです。しかし、それが過大になっていったのでは人間がダメになってしまいますから、それを抑えなさいという。
次は「瞋(しん)」です。勝手な振る舞いをして、周囲の人に迷惑をかけていても気付かない。自分の気まま次第に行動し、喋り、他人を損ない、たいへんな迷惑をかけてしまう心のことです。
次に「痴(ち)」です。しょっちゅう不平不満を鳴らし、人がうまくいけば、面白くないとそねんでみたり、妬んでみたり。そういう卑しい心のことです。
次は「慢(まん)」です。謙虚さを忘れ、傲慢になっていく心のことです。
次は「疑(ぎ)」です。何でもかんでも悪いほうに、悪いほうに考える、疑い深い心のことです。
最後は「見(けん)」です。何でも悪く見る心です。物事をよく見れば、そんなにひねくれなくてもいいのに、物事をすべてすべて悪いにほうに見る、悪いほうに解釈をする心のことです。
この貧、瞋、痴、慢、疑、見を6大煩悩としてあげ、お釈迦さまはこれを抑えなさい、それらが出るままにしておいてはならないと説かれたわけです。しかし、
これがない人はいません。お釈迦さまのような悟りをひらいた人はうんと希薄なのでしょうが、我々現世に生きている人間、これがなければ生きていけないので
す。これがなければ人間的ではないのです。だけれども、これが多すぎたのでは身を滅ぼしてしまう。だから、これらを抑えなさいということが、お釈迦さまの
説く「持戒」という意味です。
三つめが「精進」です。一生懸命に働けということです。私は皆さんに、「誰にも負けない努力をする」と要求してい
ます。他人が寝ている間も働けと、皆さんに強く強く言っていますが、それが精進なのです。悟りをひらくために、禅宗のお坊さんはたいへん厳しい修行をして
いらっしゃいます。農作業をするにしても、掃除をするにしても、坐禅を組むにしても、必死で努力しておられます。それを精進と言います。
我々も
同じように、毎日毎日必死になって経営を頑張っています。これだけでも、禅宗のお坊さんがする修行、精進と何も変わりません。怠け心を起こして怠けようか
と思っても、やっぱり会社が心配で、朝早うから晩遅くまで一生懸命に頑張っている。経営なんかしていなければ、他人さんと同じように長い休暇を取ってどこ
かに遊びに行きたいと思うんだけれども、会社を留守にすれば潰れはせんかと心配で心配で、必死に頑張っている。これが精進です。何も坐禅だけが精進ではあ
りません。生きていることに一生懸命であること、そのことが優れたことなんです。
四つめに「忍辱」と仰っています。堪え忍ぶということです。この不況のなかを皆さん、必死に歯を食いしばって堪え忍んでいます。堪え忍ばなければならないと、お釈迦さまは言っておられるわけです。
五つめに「禅定」と仰っています。坐禅を組みなさいということですが、これを私なりに解釈しますと、坐禅を組まなければならないということではありませ
ん。せめて一日1回、心を静かに鎮めなさいということです。経営をやっていますと、ついつい血が頭へ上がっていきます。経営がうまくいってもカッカ、カッ
カします。血が全部上にあがってしまいます。そして冷静な判断ができなくなります。ですから、頭を冷やして冷静になるために、一日1回は心を鎮める。禅定
とは、そういう意味だと思います。寝る前でも構いません。ベッドの上で静かに目をつむり、心を静かにするということでいいんです。
そうすると、やがて六つめの「智慧」に至ります。森羅万象を支配している宇宙の根本原理を知る、つまり悟りにいたるわけです。
稲盛塾長の講話です。
では、人間の一生で価値のあることとは何なのか。結論から言いますと、実は人間の一生の目的は心を高めることにあるんです。心を高めることが人生の意義なんです。
た
しかに名誉も地位もお金も、何もあの世へ持っていくことはできません。よしんばそれを自分の子供に遺してみたって、知れていますわ。真面目な息子が跡を継
いでも、2代も続きはしません。必ず途中でヘンな者が出てきて、全部パアにするに決まっています。自分が死んでから、長く続いても50年です。
私
どもをこの世に生み出してくれたもの、生を受けさせてくれたもの、それは宇宙創造の神、あるいは自然と言ってもいいのかもしれませんが、宇宙創造の神、あ
るいは自然は、なぜ私どもに現世の生を受けさせたのか。私みたいにひょんなことで鹿児島から京都に出てきて会社で少し仕事をし、上司と喧嘩をして飛び出し
た。そして会社をつくり、こんなことになった。それには何かの必然性があったのかもしれませんが、私にしてみればまったくの偶然みたいなものです。はたか
ら見ればたいへんラッキーで、素晴しい成功をしたではありませんか、素晴しく有名になったではありませんかと、みんなが羨ましがる立場にあるんですが、一
方、何をしてもうまくいかなくて苦労に苦労を重ね、また倒産に見舞われるというたいへんな苦労をしていらっしゃる人もいます。いや、生まれながらにして障
害を持ち、たいへんな苦労をしている人もおられるかもしれません。
なぜ、自然というものはそんな不公平なことをするのか。何の罪もないのに、生まれながらにして障害を背負わして、この世に生を受けさせるのだろう、と思ってしまいます。
五
体健全なだけでも、まだ自分はよかったかもしれない。ましてや私は、五体健全どころか、他人(ひと)からは大事業家だと言われることになっている。なんと
ラッキーだろうと思うかもしれませんが、考えてみれば、私のように大成功をさせてくれるのも、自然はそれをひとつの試練として与えたわけです。生まれなが
らに障害を持って生まれてくる子供さんも、凄まじい試練を背負わせているわけです。会社がうまくいかなくて潰れかかったりするのも試練です。私のように成
功させてくれるのも、またひとつの試練なんです。決して幸運だけではありません。
生まれながらにして障害を持たせて、その子がどういうふうに人生
を全うしていくのか、自然は見ているんだと思います。経営につまづいて、今日の手形が落ちないと苦労をしていく。そういう苦労をさせながら、その魂が、そ
の心がどうなっていくのか、自然は試しているんだと思います。
たとえば私のような者には、今まで持ったことのないようなお金を持たせ、名声と地位
まで与えた。それがどう変化していくのか、試しているんです。先ほど、人格は変化すると言いましたが、私の人格がどう変化していくのか、見ているわけで
す。おそらく、あの人は幸運に恵まれずに、もっと地味に苦労をしていれば、あんな人生ではなかったろうに、あんなに成功したばかりに、お金持ちになったば
かりに狂ってしまって、あんなふうになってしまったなということは、よくあることです。つまり、それは試練だったんです。与えてみて、それに溺れてしまう
のか、その試練に打ち負けてしまうのか、それを試している。
この人生は波瀾万丈、みんなそれぞれ違っていますが、全部が試練なんです。試練を与え
てみて、その魂が、その良心がどういうふうに反応していくのか。いい状態になったからとホイホイと喜んで贅沢をし、そして狂ってしまうのか。自然は見てい
るんだと思います。いいことも悪いことも、魂にとっては試練なんです。
私は盛和塾を始めるとき、最初に皆さんに「心を高める」と申し上げました。
その後も私は、心を純化する、心を浄化するというふうに言葉を換えて、何回も何回も言い続けてきました。皆さんも耳にタコができるくらい聞いていらっしゃ
ると思いますが、結論としては、心を純化する、心を磨くことが、実は自然が我々に生を受けさせた目的ではないかと思えるのです。
稲盛塾長の講話です。
人生にとって何の価値もない、地位、名誉、金
特に昨今は不景気です。(1999)皆さん、たいへん厳しい経済環
境のなかを日夜苦労して経営をし、立派な経営をしていきたいと願われて努力をしておられます。しかし考えてみてください。たとえば私の場合、連結ベースで
年間8000億円近い売上げをあげて、数百億円の経常利益をあげる会社を40年でつくりあげました。また、15年で1兆5000億円を売上げる第二電電を
つくりあげました。ですから、稲盛さんはたいへん立派な会社をつくり、有名になってお金持ちになったと、皆さんお考えだろうと思います。しかし、そういう
ことが一生のなかで何ほどの価値があるのでしょうか。やっぱり、何の価値もないんだと思います。
いくら有名であろうとも、いくら地位が高かろう
とも、いくらお金を持っていようとも、死ぬときはみんな、何も持たない裸一貫で死んでいかなければならないわけです。たとえ周囲の人がいくら悲しんでくれ
ようとも、誰も一緒に死んでくれる人はいません。よしんば死んでくれたって意味はありません。お金を一銭も持っていなくて、ちっとも有名ではない人が死ん
でいく場合と、有名でお金持ちの人が死んでいく場合とどう違うのかといえば、何の違いもないんです。
私は皆さんに、「事業経営者として一生懸命に
頑張り、事業を立派にしてくださいよ」と一生懸命に言ってきていますね。それに応えて一生懸命に努力し、少しはマシな会社になった。そして棺桶に足を突っ
込んだときに、「何の意味があったんやな?」と思うと、もうガッカリするわけです。「あのオッサン、ナニを言うとったんや、今まで。我々に一生懸命頑張
れ、頑張れと言って、京セラはここまでになりましたよ、できればそれを目標に頑張れ、頑張れと頑張らせておいて、"何にもなかったわ"てなことを言われた
のではたまったものではない」とお考えかもしれません。
そうなんです。いくら会社が立派になろうと、ちょっとぐらいうまくいこうと、人間の一生にとっては何の関係もないんです。
稲盛塾長の講話です。
昔、半導体用のパッケージを作ろうとしていたときの
話です。当社の幹部の技術屋さんにチーフになってもらい、研究開発を進めていました。半導体を封止するパッケージとしてはこういう特性が要るということ
は、もちろんお客さんから言われていますし、我々も知っていますから、その性能を持ったものを作ろうと開発を進めていきました。たいへんな苦労と長い時間
をかけて、やっと近いものができあがったとき、それをチーフが私のところに持ってきました。苦心惨憺して作ったものでしたが、私には薄汚れた感じのように
見えました。
それを私は「薄汚れた感じ」と表現したんですが、品物自体は半導体用パッケージとしての物性をすべて満足しています。持っていなけれ
ばならない電気特性、物理的特性、すべて満足しています。ですから、「社長、できあがりました」と持ってきてくれたんですが、見た瞬間、薄汚れた感じがし
たと私は言いました。
「なるほど、性能は間違いない。しかし、これはダメだ」
「何でですか。備えるべき性質は全部満足しています。何でダメなんですか」
「見てみい。薄汚れてるやろ」
長年かかって、ものすごい苦労をしてやっとできあがったものです。喜んで持ってきたものをダメだと言われたものですから、気色ばんで食ってかかってきました。
「け
しからん! あなたも技術屋で論理的な人です。いつも理論で言っている人が薄汚いと言う。薄汚いのと製品とは関係ありません! それだけの物理的性質を備
えているのに、それを全部無視して薄汚いと言われる。女の子みたいな感情論で判断するのはおかしいじゃありませんかよ」
「なるほどそうだけれど
も、やはりそれだけの物性を備えているものは、見た目も美しくなけりゃならんのです。あなたは物理的な測定をして、立派に満足する範囲に入っていると言う
けれども、これだけ外観が変質しているところを見れば、ギリギリでの合格であって、はるかに物理的性質が優れているわけではないはずです。立派な物性を備
えているものは見た目も美しいはずです」
よく言いますね、素晴しいスポーツ選手はフォームもきれいだと。しかし野茂みたいなヘンなフォームで投げ
るピッチャーもいますから、必ずしもそうだとは言えないのかもしれませんが、大体において内容のよいものというのは、スポーツでも何でもきれいなもので
す。品物でもそうです。よいモノはよいモノなりに、備わった品格があるはずです。
「いいや、これはペケだ。あかん」
「じゃあ、どんなものですか」
「セ
ラミックが持っている物性は純白で、素晴しいもので、触れれば手が切れるのではないかと思うぐらいのものでなければならんはずだ。屁理屈で、これは性能が
いいんですというのではありません。外観も素晴しいと思うようなものなら、物理的性質はもっと優れたものになっているはずです」
そのときに「手の
切れるような品物」という表現をして、私は頑としてそれを認めませんでした。そのことが、その後パッケージが成功していくもとになっていったと思います。
見た目も美しいものでなければならんというところまで詰めていったことが、成功していったもとであった感じがします。
その後、「手の切れるような
製品」という言葉は、社内の至るところで使われるようになってきました。欠けているような製品はもちろん問題ですけれども、そういう意味ではなくて、本当
に立派なもの、見た目に美しいものでなければならんということは、どの職場でも言われるようになっていきました。そしてそのことが、京セラが中小企業から
中堅企業へ、中堅企業から大企業へ脱皮をしていくために大きな貢献をしてくれたと思っています。
これは製品だけではありません。社員の立ち居振る舞いまで手の切れるようなものといいますか、立派な立ち居振る舞いも要りましょう。社風も品格があり、手の切れるようなものでなければならないと思います。